ベルリンの壁の跡
「ベルリンの壁」の最後の犠牲者の名前が付けられた「クリス・ギュフロイ橋」を使って運河を渡り、北上していきます。しばらく進むと、見えるのは車が行き交う道路。大通りではありませんが、郊外へと向かう幹線道路となっています。道路にはレンガが埋め込んで道路上に1本の線が印されています。それをよく見ると、書かれているのは「BERLINER MAUER 1961-1989」の文字。これは「ベルリンの壁 1961年-1989年」という意味で、「ベルリンの壁」の跡に配置されており、壁の位置がわかるようになっています。市内では壁の跡地を探すのは簡単ではありませんが、こうした壁跡地の表示は幾度も壁の存在を気付かせてくれました。

美しい公園とそれが伝える悲劇
ここからの壁跡地は水路に沿って伸びており、公園として整備された場所となっています。水路の水はゆったりと流れ、植えられた白樺の木々の間からは太陽の光が差し込みます。街を引き裂いた場所は美しい公園として生まれ変わり、訪れた人は自由に「西側」と「東側」を行き来します。美しい散歩道は数キロにわたって伸びており、気持ち良くサイクリングすることができました。しかし、このような美しい場所は、ただ自然を楽しめる場所ではありません。「ベルリンの壁」が生み出した悲劇を伝える場でもあるのです。それは建てられた慰霊のモニュメントによって気付くことができました。

壁を乗り越えようとした二人の少年
壁跡地に造られた美しい公園には、ベルリンの壁をモチーフにしたモニュメントが建っています。そこには子供のシルエットが切り抜かれているのです。そしてシルエット周辺に見えるのは複数の弾痕。このモニュメントが暗示するのは二人の少年の悲劇でした。そのうちの一人は10歳の少年ヨルグ・ハルトマン(Jörg Hartmann)。もう一人は13歳の少年ローター・シュロイゼナー(Lothar Schleusener)。1966年3月14日の夜7時過ぎに二人は壁を乗り越えようとします。残された資料によれば、東独の国境警備兵は「ベルリンの壁」に近付く影に気付き、警告を発しました。しかし反応が無かったため銃撃を行い、二人の少年の命は失われてしまったのです。

隠蔽された悲劇
少年たちはなぜ「ベルリンの壁」を乗り越えようとしたのでしょうか。実は二人には西ベルリンで会おうとしていた人がいたのです。ヨルグ・ハルトマンの場合は父親でした。ヨルグの母は精神を病んでおり、祖母に育てられていたヨルグは父親に一度も会ったことがなかったのです。一方、ローター・シュロイゼナーは西ベルリンに住む親戚に会おうとしていたようです。
二人の少年たちの冒険は悲劇に終わり、東ドイツに取って非常に都合の悪い事件となります。ヨルグはベルリン近郊の湖での水死として、ローターはベルリンから離れたライプツィヒ近郊で感電の事故死として処理されることになり、多くの公式書類は破棄されて事件は闇に葬られたのでした(二人の少年の家族は告げられた死因を疑っていたようです。というのも当時東ベルリンでも「西側」のラジオを聞くことができ、「ベルリンの壁」で二人の少年が狙撃されたことは報じられていました)。

悲劇を伝え続けることの重要性
闇に葬られていた少年たちの死に光が当たったのは壁が崩壊した後の1990年代のこと。1999年には、少年たちのために、そして周辺で命を落とした犠牲者のためにモニュメントが建てられて、悲劇は伝えられていくことになります。私自身も少年たちの死は、このモニュメントに出会うまで知りませんでした。そして、この事件の経緯を知ったときに、その恐ろしさに言葉を失ってしまいました。それと同時に「ベルリンの壁」の悲劇を伝えることの重要性やモニュメントが果たす役割を改めて痛感したのです。
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