ベルリンと聞いて、多くの人が真っ先に思い浮かべるのは「ベルリンの壁」かもしれません。一つの街を二つに引き裂いたその壁は、東西冷戦の象徴でもありました。それは単なる物理的な境界ではなく、国や街、そして人々の暮らしをも深く分断してきたのです。
1989年、ついに壁は崩壊してドイツは再統一への道を歩み始めました。しかし、あれほど強固だった壁が崩壊したのか、その真相は意外と知られていないかもしれません。実はいくつもの要因が複雑に絡み合い、劇的な連鎖反応が起きていたのです。
こちらの記事では、ベルリンの壁崩壊へと繋がった背景や、その裏側で起きていた出来事を説明しています。この記事を通じて、壁が崩壊した理由やその歴史に少しでも興味を持ってもらえると嬉しいです。
1. ソ連の弱体化と新政策(ペレストロイカ)
東西冷戦で東側となったソ連は、1980年代に入ると経済に大きな問題を抱えることになります。その理由には生産数のみを追求した計画経済に成長が見られないことや、アフガニスタン侵攻などの軍事費の増大がありました。
また1986年にはチェルノブイリ原発で事故が発生し、ソ連は改革に迫られたのでした。1985年にゴルバチョフ書記長が就任すると改革が進められて、高圧的な外交から融和的な外交へと変わります。そして東欧諸国への介入を止めたことで、各地で民主化を求める自由な動きが急速に広がっていくこととなりました。

2. 東欧の民主化(ポーランド・ハンガリー)
ソ連で改革が進められるなかで、特にポーランドとハンガリーで民主化の兆しが見られるようになりました。1989年にポーランドでは自由選挙が行われ、共産主義体制が終わりを迎えます。一方ハンガリーでは1989年に政党を結成することが可能となり、一党独裁制が放棄されたのでした。
こうしたなかで1989年5月に、ハンガリーは隣国で西側に属していたオーストリアとの国境の鉄条網を撤去したのです。これによって東西の間にあった鉄のカーテンに初めて綻びが生じたのでした。

3. 東欧を通じた東独市民の逃亡(汎ヨーロッパ・ピクニック)
1989年5月、ハンガリーがオーストリアとの国境にある鉄条網の撤去を始めます。東ドイツ市民は西側に旅行することは簡単ではありませんが、東欧諸国には旅行することは難しくありませんでした。そのためハンガリーからオーストリアへの亡命を狙って、多くの東ドイツの市民が集まるようになったのです。
しかし、この時点ではハンガリーのパスポートを持つ者しか、オーストリアに向かうことはできませんでした。しかし8月には「汎ヨーロッパ・ピクニック」と呼ばれるイベントを利用して、500人以上もの東ドイツ市民のオーストリアへの逃亡を助ける出来事が起きたのです。
それをきっかけに、9月にハンガリー政府は東ドイツ市民に対して、オーストリアとの国境を開放します。そして西側への移住を求めてハンガリー国内に留まっていた東ドイツ市民を西側へと逃したのです。
4. 東ドイツ国内の停滞と抗議デモ(月曜デモ)
ハンガリーを利用した西側への逃亡は、強固な東側諸国の結束が崩れたことを意味しました。東ドイツ市民の流出をハンガリーが助けることになり、ソ連もそれを止めることはなかったのです。
これを受けて東ドイツ政府がとったのは、チェコスロバキアとの国境を閉鎖することでした。国境の閉鎖して、東欧諸国への移動を止めることで、ハンガリーから西側へ市民が逃亡することを防ごうとしたのです。
しかし、このような対応に東ドイツ市民は不満を募らせることになります。ライプツィヒでは大規模な民主化を求めるデモが開かれます。そして1989年10月には長期に渡って東ドイツの政治を牛耳ったホーネッカー政権が崩れることになったのです。

5. ベルリンの壁「最後の犠牲者」
1989年2月、20歳の若者クリス・ギュフロイがベルリンの壁から西側へと逃亡を試み、警備兵によって射殺されました。この事件はすぐ西側に伝わり、国際的な大スキャンダルとなります。
当時、経済的に困窮し西側からの融資に頼っていた東ドイツにとって、この批判は致命的でした。 東ドイツ政府は資金援助を継続させるため、国境警備のあり方を変更せざるを得なくなります。
そして1989年4月、市民の逃亡を防ぐための「発砲命令」が事実上撤回されました。壁の崩壊まであと数ヶ月という時期に命を落としたクリス・ギュフロイは、皮肉にも自らの死で、分断の壁に決定的な隙間を生み出すことになったのです。

6. 運命の記者会見と「旅行の自由化」
国内で急速に高まりつつある不満に対して東ドイツ政府は、11月にチェコスロバキアとの国境を再び開放します。これによって数万人の東ドイツ市民が西へと逃れることになります。
しかし、市民の不満は収まることなく、首都ベルリンでは数万人以上の市民が参加する大規模デモが開催されます。そして11月8日は首脳陣の退任、そして多くの改革を行うことを決断することになるのです。
そうした改革の中にあったのが、「旅行の自由化」でした。11月9日に「旅行の自由化」が発表されのですが、意図してたのは、東ドイツ市民は政府に申請して許可を得れば、西側へと自由に旅行できることでした。
しかし、記者会見での発表は、発表者とマスコミの誤解を通じて、大々的なニュースとなります。そこで広がったのは、「ベルリンの壁が今すぐ開放され東から西へと自由に移動できる」というニュースでした。
7. 壁の崩壊
当時東ドイツでは、密かに西側のニュースのテレビやラジオから報道内容を知ることがができました。そのため西側で報道された「ベルリンの壁開放」のニュースは瞬く間に広がり、多くの東ドイツ市民が検問所へ殺到したのです。
1989年2月にベルリンの壁で射殺された最後の犠牲者以来、壁付近での警備は以前ほどの厳しさはありませんでした。また押し寄せる人々の数は多く、それをコントロールすることはできなかったのです。
最終的に流血の事態を恐れて、現場の判断で国境警備兵はゲートを開放します。そして東ドイツ国民が西へとなだれ込んだのです。これによって30年近く一つの街を分断してきた壁は有名無実化したのでした。

8. ドイツ再統一(東ドイツの吸収合併)
「ベルリンの壁崩壊」によって西側への自由な移動が現実のものとなると、東ドイツの政治体制は急速に崩壊へと向かいました。市民の西側への流出は止まらず、東ドイツ政府は統治能力を完全に喪失したのです。
1990年3月、東ドイツで最初で最後となる自由選挙が実施されました。この選挙で、早期のドイツ再統一を掲げる勢力が圧倒的な勝利を収めたことで、統一への道のりは決定定的となります。同年7月には、政治的統合に先駆けて東ドイツに西ドイツの通貨「ドイツマルク」が導入され、経済的な統合が進められました。
国際社会においても、当時のソ連がドイツ統一を容認したことで大きな障壁が取り除かれます。そして1990年10月3日、東ドイツの各州がドイツ連邦共和国(西ドイツ)に編入される形で、ドイツは45年ぶりに一つの国家として再統一を遂げたのです。










