ベルリンと聞いて、多くの人が真っ先に思い浮かべるのは「ベルリンの壁」でしょう。しかし、その壁がなぜ築かれなければならなかったのか、その正確な背景を知る人は意外に少ないかもしれません。
ベルリンの壁は、第二次世界大戦の直後に作られたわけではありません。壁が築かれたのは、東西ドイツが成立してから実に10年以上が経過した後のことでした。
こちらの記事では、ドイツ分断の始まりから、国家成立を経て「壁」が築かれるに至るまでの歴史を辿ります。そして、なぜ10年以上の空白期間を経て壁が必要とされたのか、その理由に迫ります。
1. 東西分割によるドイツの統治(1945年〜)
第二次世界大戦の敗戦により、ドイツは戦勝国であるアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4カ国によって分割統治されることになります。首都ベルリンも同様に4カ国で分割されますが、ベルリン自体はソ連統治下にある東ドイツの中心部に位置していました。
つまり、西側陣営にとって西ベルリンは、周囲をソ連側に囲まれた「陸の孤島」だったのです。この地理的条件が、後のベルリンの壁建設へと至る大きな要因となります。

2. 深まる東西陣営の対立(1945年〜1948年)
米英仏の西側陣営とソ連の対立は次第に激化し、ドイツの扱いについても意見が分かれました。その決定的な引き金となったのが通貨問題です。西側はインフレを抑えるため、1948年6月20日に新通貨「ドイツマルク」を導入します。これに対しソ連側も、わずか3日後の6月23日に独自の通貨を発行して即座に反発しました。
ドイツ全体を自らの影響下に置くことを目論んでいたソ連にとって、西側単独の経済改革は容認しがたく、この通貨対立が強い反応を引き起こすことになったのです。
3. ソ連による西への圧力、ベルリン封鎖(1948年)
東西陣営の対立が頂点に達し、ソ連が起こした動きが「ベルリン封鎖」でした。1948年6月、ソ連は西ベルリンへ繋がる全ての鉄道や道路を遮断し、物資の輸送を停止させます。さらに東側からの電力供給も大幅に削減し、西ベルリンを「兵糧攻め」の状態にしたのです。
同時に西側市民に対して「東側に来れば食料を提供する」と勧誘を行い、西ベルリンを東側の支配下に置くことで、ドイツ全体におけるソ連の影響力を強めようとしたのです。

4. 維持された西ベルリン、ベルリン大空輸(1948年〜1949年)
深刻な食料や物資不足に陥った西ベルリンを救うため、アメリカを中心とした西側連合国により「ベルリン大空輸」が開始されます。陸路は完全に遮断されましたが、空路は開かれており、これを利用した大規模な空輸が断行されたのです。
輸送の拠点となったのは、ベルリン中心部にあるテンペルホフ空港などでした。ピーク時には数分おきに離着陸を繰り返すほど空輸が行われ、生活物資が供給されました。この支援を記念して、テンペルホフ空港跡地の近くには「プラッツ・デア・ルフトブリュッケ(空の架け橋広場)」という地名が残されています。
ソ連は空輸の成功を見て、1949年5月に封鎖を解除しました。しかし、この1年近い「兵糧攻め」とそれに抵抗する空輸は、東西ベルリンの分断を決定的なものにしたのです。

5. 東西ドイツの成立(1949年〜1952年)
東西で新通貨が導入され、ベルリン封鎖を通じて対立が決定定的になったことで、ドイツが別々の国家として成立します。1949年5月、西側占領地区ではボンを首都とする「ドイツ連邦共和国(西ドイツ)」が成立しました。
続いて同年10月、東側占領地区でも「ドイツ民主共和国(東ドイツ)」が成立し、ドイツは正式に分裂しました。
1952年には、東西ドイツを隔てる長い国境線が東ドイツ側によって閉鎖されましたが、ベルリン市内だけは例外でした。地下鉄やSバーンなどが東西を繋いでいました。そのためベルリン市内での人々の往来は比較的自由で、日々数万人もの人々が東西を行き来していたのです。

6. 冷戦の激化、東側からの「抜け道」だったベルリン(1952年〜1960年)
ドイツの分裂後、世界は本格的な冷戦体制へと突入します。1949年に西側では軍事同盟であるNATO(北大西洋条約機構)が設立されましたが、東側陣営も1955年にワルシャワ条約機構を結成します。アジアでは1950年に朝鮮戦争が勃発し、東西の代理戦争が行われていました。
こうした緊張状態のなかでも、ベルリンでは物理的な閉鎖が行われず、自由な往来が可能でした。その結果、経済的・政治的な自由を求めて東ドイツから西側へ逃れる人々が後を絶たず、毎年10万人以上もの人々がベルリン経由で西へと逃れました。
亡命者には医師、技術者、熟練労働者といった人々が多く含まれており、東ドイツ政府は人材流出に危機感を募らせます。そして、この事態を食い止めるための強硬な手段を本格的に模索し始めたのです。

7. ベルリンの壁の建設(1961年)
東ドイツ指導部は以前から、人材流出を食い止めるために東西ベルリンの境界を封鎖することをソ連側に求めていました。ソ連の了解を取り付けた後、1961年8月13日の深夜に封鎖が強行されました。
境界線には突如として有刺鉄線が張り巡らされました。地下鉄や鉄道といった公共交通機関も分断され、東西を跨ぐ移動は完全に遮断されました。一夜にして境界の封鎖は完了しましたが、まだ封鎖が不完全な場所もあり、西側へ逃れる人も多くいました。
しかし数日後には、有刺鉄線は強固なコンクリートブロック製の壁へと建て替えられ、逃亡は極めて困難になります。8月24日には、西側へ逃れようとした東ドイツ市民が射殺されます。この事件により、ベルリンの壁は単なる人材流出の防止策にとどまらず、人々の命を奪い、東西の街を引き裂く境界となったのです。











